
占いをなりわいとしている人はどんな本を読んでいるのか。あの人の考え方や視点はどうやって生まれたのか。本との出会いやエピソードともに偏愛している本を紹介してもらいましょう。
占星術研究家SUGAR
言葉でトリップ
してしまった1冊
松尾芭蕉『おくのほそ道』
二十代が終わり三十代に差しかかる頃、友人に誘われて中野のカフェの一角で月に一度開催されていた古典勉強会に参加するようになった。

その会は在野で思想研究を続けてこられた韓国人のC先生を中心に、一年かけて日本の古典を一冊読み込んでいくというもので、自分が参加した年に課題本として取り上げられたのが「俳聖」とも呼ばれる松尾芭蕉(1644~1694)の『おくのほそ道』だった。

それまで俳句や芭蕉の名は目にしたことはあっても、ちゃんと読んだこともなかったし、それをどんな風に学んでいくのか、楽しみ半分不安半分というところだった。というのも、当時はまだ会の参加者が少なく、僕と友人の他は六十代前後の方々が3、4人参加している程度のこじんまりとした雰囲気で、なんとなくかなり初歩的な内容をゆっくり丁寧にやるものなのかと思っていたからだ。

ところが、そんなあまい予想はすぐに裏切られた。例えば、まだ参加して間もない初夏の頃、勉強会が始まるか始まらないかというざわめきの中で、C先生がこんなふうに語りかけてきたことがあった。
なぜ私たちの心はしゃべり続けているのか?
おしゃべりは心臓の鼓動にのって止めどなく続き、そうして私たちは「物語」を作り続けようとしている。
なぜ? 何のために?
……それは、幸せになりたいから。
だからこそ私たちはその鼓動を、おしゃべりを、やめることができない。
けれど、それが同時に私たち自身を束縛する鎖にもなってしまう。
言葉によって陥った不自由は、言葉によってしか抜け出すことはできない。
江戸を発った芭蕉が奥羽・北陸の歌枕を訪れ、その様子を散文と俳句で綴った『おくのほそ道』の「日光」の章の最後に出てくる次の句は、そのことを踏まえると実に味わい深い。

この「滝」とは、まさに刹那も止まることがない私たちの心の在り様そのものであり、また「しばらく」は「縛る(しばる)」から来ている。そして滝に籠るとは、滝の裏へ、つまり心の在り様の彼方へと踏み入っていくことを暗に言っているのである。そう言う意味では、芭蕉を深く学ぼうと、こうして路地裏のこの空間に集まっている自分たちもまた、「滝」に籠ろうとしているのかも知れない。

ここで少し視点を変えてみよう。地球という惑星を1メートルのボールだとすると、われわれ生命が生存可能な大気圏内はどれくらいの厚さだろうか?
その答えは、ほんの「紙一枚」である。
そこに人間を含めた地球上のすべての生命が棲みつき、生かされて在る。
先の俳句もそうだけれど、芭蕉の句というのは、いのちを本当にあわれむ熱い気持ちから詠まれている。私たちは彼を通して、紙一枚の中の濃密な出会いを再発見していくのだ。そういうつもりでテキストを読んでいこう、と。そうC先生は言っていた。

こうして、いつも気が付くと勉強会には心地よい静謐さが流れており、そのうち、芭蕉というインターフェイスを通じて、C先生と共に本州を北上する旅をしているような感覚になっていった。
ちなみに「おくのほそ道」は、リアルタイムに綴られた紀行文ではなくて、手記をもとに、旅を終えてから数年経ってから改めて編集・創作されたもので、同じモチーフで異なる句が無数に存在する。滝に関する別バージョンの句も見てみよう。


ほととぎす(時鳥)がないているけれど、それが滝の表からなのか、裏からなのか分からない。あるいは、表では聞こえていたのに、裏に入るともうそれが分からないということがここでは詠われている。

C先生は彼の師である空前絶後の碩学・井筒俊彦を引いて、「意味を分節すると表だけれど、それ以前の(主客が未分化の状態で一体となっている)ときは裏であり、そういう表裏の中に私たち(の心は常に)ある」ということになるだろう、とも言っていて、それを聞いたとき、どこか不思議な気持ちになったのを覚えている。
いま思えば、単に「裏」と「心」が語源的に通じているばかりでなく、表からは見えない物事のウラ(心)をうかがうのが占いなのだすれば、これらの句は占いというものの本質に触れていたのだとも言える。すなわち、夏という新たな季節の到来を告げる「ほととぎす」の声は外的現実としてやってくるものでもあると同時に、意識の深奥からやってくるものでもあり、滝の流れ=心のおしゃべりはそのことを隔ててしまうこともあれば、さえざえと映しもする。そしてそれはまずもって悩みの中でおのれを見失う人間の姿であり、また、ふとした瞬間に星の動きと人生とが一致していく占い体験そのものじゃないか、と。
いったんそう思うと、C先生の語りによってホログラムのように浮かび上がってくる芭蕉の句の一つひとつが、生きた象徴に彩られたホロスコープのように感じられるようになっていった。それと共に、『おくのほそ道』の鮮やかで映像的かと思うとどこか説話的な描写が、目前の出来事の客観的説明などではなく、編集されたものであり創作なのだということの意味が少しだけ分かったような気がした。
つまり、記憶の原石が言葉によって磨き抜かれると、次第に新たな光を放ち、「わたし」や「あなた」の物語を浮かび上がらせるのだということ。さながら、実際の星がその輝き放ってずっとたってから人の心に灯りをともすように。
そして、そうして醸成されてくる言葉の豊かさによって育まれるのが心情の豊かさであり、心情の豊かさこそ人間の豊かさをあらわし、さらに人間の豊かさは国土の豊かさによって支えられてあるのだということも、芭蕉の『おくのほそ道』から、またC先生から、繰り返し教わったように思う。
2021-08-08
思わず引き込まれてしまいました。おくのほそ道は、昔、学校の授業で触れただけですが、もう一度読んでみようと思います。