学校よりも、街頭の易者から多くを学んだ日々/天童春樹 第1回

占いという分野において、独自の力で道を切り拓き、先駆者として占い業界を引っ張ってきたレジェンドたちに自らの半生を語っていただきました。 今、多くの人に親しまれている「占い」を形作った人々の生きざまや想いを深掘りしていきます。

人相術の第一人者

天童春樹

街頭占いのスペシャリストといえば、天童春樹さんの名が一番に浮かぶのではないでしょうか。デビューしてから一貫して多くの人を鑑定し、対面で「当てる」ことを追求し続けるたたき上げの実践家です。そして、天童春樹さんは人相・手相の分野において日本での第一人者でもあります。

占い師となって約半世紀、古き良き占い師の気風や文化をよく知る天童春樹さんに、学生時代から占い師としてデビューした当時の思い出を振り返っていただきました。

年表
レジェンドの足あと

“生き死に”が
身近にあった少年時代に
育まれた運命観

占い師を見極める上で重要なのは、その占い師の「発心(ほっしん)」を知ることではないでしょうか。発心とは「どうして占いをするのか」というそもそもの動機のことですね。

私の場合は、幼いころからよく「人の運命とはなんだろう」と考えていたことが占い師として発心するきっかけとなったのでしょう。

まだ幼かった私が、なぜそういった考えを持っていたのか。それは、私の実家が建設業を営んでいたことが大きな影響を与えています。

今から半世紀以上も前ですから、建設業の危険作業に対する認識も今とは全くと言っていいほど違っていました。現場に出て怪我をする人も少なくはありませんでしたし、その中には命を落としてしまう人もいたのです。

それゆえ、私が育った環境では“生き死に”について考える機会が人よりも多かったのかもしれません。「なぜ、ひとりひとり運命や人生が違うのだろう」といった疑問を占いに出会う前からずっと抱えていました。その結果として、運命や人生の数奇さに自然と心が惹かれていったのでしょう。

そういった心の素地があり、その上に占いが乗って今の私があるのだと思います。

運命や人生は数奇なものですが、占いを使ってそれをいい方向に導いていくこともできます。そのような運命鑑定の持つ力こそが、生涯の仕事として私が占いを選んだ「発心」です。

レジェンドの足あと

占いとの出会いは
高校時代
学校を飛び出し
街頭の易者から学ぶ

そんな私が、本格的に占いをはじめたのは高校1年生のときです。私の高校生時代といえば、1960年代前半ごろで、占いがブームになっていました。

当時を振り返ってみると、熊﨑式姓名学の創始者の熊崎健翁先生、「昭和の易聖」と呼ばれる加藤大岳先生など今では伝説の人と言ってもいいような方々の著書が販売されていたのです。皆が占いの書籍を手に取り、覚えたての占いを楽しんでいましたね。

私が最初に占いに触れるきっかけをくれたのは、高校の同級生でした。私より先に占いをはじめた友人がいて、彼が私の手相を見てくれました。その友人につられて私も徐々に占いに興味を持ち始めたという形です。

今でも売れ続けている沢井民三先生の『図解 手相の事典』(白揚社)という本があります。1958年に発行されており、この本で手相についての基本を学びました。この本は、西洋手相の総まとめと言っていいでしょう。これから手相を学ぶという人にもおすすめの一冊です。

そういった学習を通じて私は段々と占いにのめりこんでいきます。街頭の易者を訪ねては自分自身を占ってもらうなどして交流も深めました。いつからか学校の勉強よりも占いの勉強のほうが楽しくなっていることに気づくのです。

そして私は高校を中退して、本格的に占いの勉強をはじめます。

レジェンドの足あと

「黙って座れば
ピタッと当たる」
阿部泰山先生の鑑定を
体験した修業時代

高校を中退してからは占いの勉強に心血を注ぐ日々です。 さまざまな先生に手紙を出し、教えを請いました。その中でとてもよくしてくれたのが中村文聡先生です。文聡先生からご紹介していただき『あなたも観相ができる』(易占堂)などの著書も著している八木喜三朗先生の通信講座を約3年間受講しました。その後は、地元の高知を離れて大阪の「八木観相塾」で学びます。

大阪では、建設業の仕事をしながら占いの勉強を続けていました。

占いを学びはじめたころに、京都の阿部泰山先生を訪ねたことがあります。18歳か19歳のころだったと思います。泰山先生は日本の四柱推命の研究者で泰山流という流派の大本ともなった占い界の重要人物です。

当時の泰山先生のご自宅は立派な門の大きな家でした。近所でも有名な名家だったようです。そのご自宅に赴いて、私自身を占ってもらいました。泰山先生の占いは、まさに「黙って座ればピタッと当たる」です。占いたい内容と生年月日を伝えただけで、サッと鑑定書を書いてくれました。

その鑑定書の内容が驚きでした。その後の人生について、妻を得ること、子どもは何人もうけるかなどがズラッと書いてあり、それが全て当たったのです。その鑑定書はなくしてしまいましたが非常に惜しいことをしました。

レジェンドの足あと

最初は全然ダメでした…
自分だけの鑑定を
確立したきっかけとは?

占いを学び、私自身も20歳ころから街頭での占いをスタートしました。しかし、最初のころは全くダメでした。街頭の占いではお客さんも正直です。占いの内容が間違っていれば「当たっていない」とピシャリと言われてしまいます。

そんな私にお客さんがつくはずもありません。お客さんは月に5人から10人程度だったでしょうか。当然、占いの収入だけでは生活ができるはずもありませんでした。

私は、23歳で結婚して子どもが4人います。結婚した当時も、まだまだ占いの収入が少ないときで、とにかく稼がなければいけませんでした。そのため、占いの収入では足りない部分はアルバイトで補填するという日々を過ごしました。建設業の仕事や運転手、それに呼び込みの仕事などさまざまなアルバイトを経験しましたね。

ちなみに、私の4人の子どもは全員占い師以外の道に進みました。私の苦労している姿を見て占い師にはなりたくないと思ったのかもしれません(笑)。

それから、占いだけでは食えずにアルバイトと兼業の日々が10年続きました。

当時、先輩が私にしたアドバイスを今でも覚えています。先輩は「お前の占いは教科書通りだ」と言うのです。占いには実践を積まなければ会得できない技能もあります。これが当時の私には大きく不足していました。


そんな食えない時代にお金に腐心して占いの専門書を売り飛ばすということがありました。手元に残したのは本当に重要な5、6冊のみ。売ってしまった本の中には貴重な専門書もあったので今でも取っておいたら価値が上がっていたのではないでしょうか。

しかし、不思議なことに専門書を手放したころから私の占いが上手くいくようになっていきます。手元からなくなったとはいえ、何度も何度も繰り返し読んだ本なので、頭の中には本の内容が刷り込まれています。本を手放したことによって、教科書通りではない自分の型を持った占いができるようになってきたのかもしれません。

ただ、私が占いに自分の色を出せるようになったのは10年を超える勉強と実践の日々があったからこそだと思います。全ての占いに共通すると思いますが、まずは徹底して基礎基本を習得すること、それが上達の近道なのは間違いないでしょう。

>>第2回に続く

2023-04-09

出演者紹介

天童春樹(てんどうはるき)

天童春樹(てんどうはるき)

旧名:天道春樹
街頭易者として50余年の実績を持つ占い師。人相・手相の分野において日本での第一人者。
昭和22年8月19日申の刻に、現在の高知県高知市大津に生まれる。16歳で運命学に出会い、八木喜三朗先生に師事。19歳で大阪の「八木観相塾」の末席を汚す。高知県、高知市帯屋町の街頭での運命鑑定、自宅での予約鑑定、出張鑑定に応じている。要望があれば随時、「天童観相塾」を主催して、人相術の普及に努めている。

HP:http://wwwe.pikara.ne.jp/tendou-haruki/index.html

記事執筆者

菅谷圭祐(すがやけいすけ)

菅谷圭祐(すがやけいすけ)

ライター業とリサイクル業の二刀流で生計を立てています。机に向かって文章を書いたり、大きい荷物を運んだり、頭と体を日々フル活用しています。

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