
占いという分野において、独自の力で道を切り拓き、先駆者として占い業界を引っ張ってきたレジェンドたちに自らの半生を語っていただきました。 今、多くの人に親しまれている「占い」を形作った人々の生きざまや想いを深掘りしていきます。
あくなき探究心の塊
風水師
黒門
奇門遁甲を中心に中国をはじめ、韓国、香港などに伝わる占術を幅広く学んだ専門家、風水師の黒門さん。特定の流派に属さず、独自の立場で占術の理解を深めたエキスパートです。
そんな黒門さんが、どのようにして占いと出会い、占術研究にまい進するようになったのか。これまでの軌跡を追う中で、黒門さんのあくなき探求心の源泉が見えてきました。


少年時代に
お寺の書斎で見つけた
江戸時代の占い本…
私が占いで生計を立てるようになったのは40歳のころです。30歳くらいから会社員と二足のわらじを始めたのですが、年を重ねる毎に両立が難しくなり、40歳ごろに専業化しました。
キャリアのスタートこそ40歳からになりますが、私にはそれまでに蓄積した知識がありました。そしてその知識こそが私の活動を支える土台となっています。
占いにはじめて触れたのは、小学生のときです。私が生まれた家の本家がお寺だったため、学校が終わった後の時間をよくそのお寺で過ごしていました。お寺の二階には書斎があり、当時から読書が好きだった私はその部屋にあった本をよく手に取っていました。
そのたくさんあった本の中に江戸時代に出版された占いの本もあったのです。今では現代語訳も出版されている本で、かなり厚みのある本です。江戸時代の本ということもあり、小学生の私には読めるところと読めないところがありましたが、その本を好んで読んでいたのを覚えています。
また、お寺には仏具店から「開運暦」が毎年届きますよね。その開運暦の巻末に載っている手相や姓名判断なんかにも興味を惹かれていました。
占いは、私にとって幼いころから身近にあるものでした。当時は占いの道に進むとは思ってもいませんでしたが、このことはやはりきっかけのひとつとしては大きかったのではないかと思います。

謎が多いからこそ
惹きつけられる
「奇門遁甲」の魅力
占いを学んでみようと思ったのも小学生のときです。
最初の経験をひも解いていくと、初代・錢天牛先生の『占い教室』(秋田書店)という本にいきつきます。当時の秋田書店では子供向けの入門書シリーズが刊行されていました。その中に占いシリーズもあり錢天牛先生がその内容を書かれていたのです。この本が学びという点でのスタートといえるでしょう。
『占い教室』をきっかけに姓名判断など様々な占いを学びますが、私の専門となる奇門遁甲に出会ったのは少し別の流れになります。
奇門遁甲の存在を知ったのは『妖術武芸帳』というTBSのドラマがきっかけでした。ドラマの中で、妖術を使って戦うシーンが描かれていたのですが、そのモチーフとなったのが奇門遁甲だったのです。そして、ほぼ時を同じくして、少年雑誌の付録で妖術の系譜の中に「八門遁甲」という単語を見つけます。
この八門遁甲や奇門遁甲というものが何なのかが当時から読書家の僕としてもわかりませんでした。ほかにも武術や忍術の本でも、奇門遁甲という言葉を見かけます 。
一体、奇門遁甲とは何なのか。小学生の私には奇門遁甲は不思議な魅力を持つ謎に満ち溢れた言葉だったのです。

日本中の奇門遁甲の本は
すべて読破!
尽きない探究心
それからしばらくして、中学3年生のときに、田口真堂(たぐちしんどう)先生の『奇門遁甲入門』(青春出版社)を読みました。これが奇門遁甲に対する探求心のはじまりでした。
なぜ私が奇門遁甲に夢中になったのかというと、「運を改善するための法」という性質に惹かれたからです。というのも、四柱推命などで自分を占ってみると、悪いことしか書かれていない、本当に惨憺たる結果で…。そんな私の最悪な運も奇門遁甲を使えば改善できるかもしれない、これが大きな魅力でした。
しかし、奇門遁甲を学ぶ道のりは決して簡単なものではありませんでした。当時の最大の問題はなんといっても情報の少なさです。
当時の日本には、奇門遁甲の本がほとんど出回っていませんでした。ですから、最初は気学の本を読んで学んでいたのです。
大学生になってからは専門書を読むようになりましたが、日本で奇門遁甲の本を発行している出版社は二か所くらいしかありませんでした。佐藤六龍先生の香草社(こうそうしゃ)が出版した本は全部持っていますね。ほかには、中村文聰(なかむらぶんそう)先生の著書や、武田考玄(たけだこうげん)先生の『奇門遁甲個別用秘義』など。あのころ、日本で読める文献は、大体が透派か、武田考玄先生の著書でした。

黒門さんの本棚
専門書の数もそれほど多くないということもあり、コツコツと読み進めていくうちに20代の半ばには国内の本をほぼすべて読み終えてしまいました。それでも満足できず、次は台湾の原書をどうにかして手に入れて読むようになったのです。
ちなみに当時の私は福岡在住でした。ただでさえ市場に出回っている数が少ない専門書は福岡ではほとんど手に入りません。20代でサラリーマンになっていた私は仕事で東京に出張がある度に、神田にある中国書の専門店の「海風書店」に通っていました。今は店名が変わってしまったかもしれませんが。店主の方には、ハガキで連絡をして本を送ってもらったりしてとてもお世話になりましたね。
本の最後には、同じ出版社から出ている他の本が掲載された目録がありますよね。当時は、読んだ本の目録に書かれている本を端から端まで買いそろえて読んでいく、ということをしていたのです。台湾の本なので、当然すべて現地の言葉で書かれていますから、辞書を引きながら読んでいました。
台湾の原書も、手に入れることができるものは30代後半には読み終えてしまいました。それで、日本の江戸時代、明治大正時代に出版された古書を探し回って読んだのです。こちらも数が多くないこともあり、1年ほどですべて読破してしまいましたね。
ここからどうやって勉強しようかと考えていたときに、新たな道を開いてくれたのがインターネットでした。インターネットによって世界が劇的に広がっていくことになります。

黒門さんの本棚

海を越えて中国・韓国へ
現地の奇門遁甲を学ぶ
1997年、占いのサイト「黒門の中国占術の部屋」の公開をはじめました。ちなみにこの時期に自分のサイトを持つというのはかなり早いほうでしょう。インターネットを使っている人自体も少数だった時代ですが、インターネットを通じて世界中につながれることに希望を感じて、いち早く飛びついたのです。
あるとき、立ち上げたサイトのアクセスを解析してみたところ、3割が中国からのアクセスであることがわかりました。どういったサイトを経由して自分のページに辿り着いているのかとアクセス解析をさらに進めると、韓国の奇門遁甲のページを発見します。
この韓国の奇門遁甲のページが衝撃的な内容でした。それまで日本と台湾の奇門遁甲を学んでいましたが、韓国には違った形の奇門遁甲があったのです。
すぐに私は翻訳ソフトを活用してメールで「奇門遁甲を教えてもらえませんか」と送ります。断られることもありましたが、趙宰星先生が快く受け入れてくれたのです。そしてメールで課題を送られてきて答えるという日々を約1年半過ごした後、最終的には2001年に韓国に渡り直接教えを請いました。
このほかにも、インターネットをきっかけに中国本土とのパイプもできました。当時の日本では中国本土の占いは文化大革命でなくなったといわれていたのですが、脈々と生き続けていたのです。90年代後半ですので、今ほど日本と中国の行き来も活発ではありません。様々なつてを介して現地の専門書を入手し、古来中国に伝わる奇門遁甲も学びました。
そして韓国だけでなく、2002年には中国河南省に直接出向いて劉廣斌(りゅうこうひん)老師にも師事しました。現地で拝師(はいし)という儀式をして、正式な弟子として迎えてもらったのです。とはいえ、私の使う奇門遁甲術は、劉式の一部を取り入れていますが、それ以外の知識も網羅的に取り入れてまとめたものとなっています。

黒門さんの本棚
気づいてみると、奇門遁甲の学びの日々は20年以上が経過していました。そんな学びの旅も中国や韓国での経験を通して、自分の中にひとつの達成感を得られたように思います。
そして、学びの日々のあるときに私はふと気づきます。自分は他の人よりも奇門遁甲に詳しいのではないかと。
この気づきをきっかけにして、学びとしての奇門遁甲だけでなく、仕事としての奇門遁甲の道が開けていくことになります。
>>第2回「学ぶ側から教える側へ、風水師としての転機とは?」に続く
2023-2-23