
占いという分野において、独自の力で道を切り拓き、先駆者として占い業界を引っ張ってきたレジェンドたちに自らの半生を語っていただきました。 今、多くの人に親しまれている「占い」を形作った人々の生きざまや想いを深掘りしていきます。
チャレンジし続ける占い師
占い師
マドモアゼル・愛
占い師としてのデビュー後、マドモアゼル・愛さんは着実にキャリアを積んでいきます。そんなマドモアゼル・愛さんに転機となった時代があるとするならばそれは1990年代ではないでしょうか。
多くの事を成し遂げた90年代には、マドモアゼル・愛さんの人生観に変化を与えるある事件もありました。現在の活動にまで続く軌跡を紐解いていきます。


売れる売れないじゃない
出版することに意義がある
日本初エフェメリス監修
雑誌の執筆などで占い師として経験を積み、以降は執筆以外にも活動の幅を広げていきました。もっとも、活動の幅を広げるとはいえ、勝手に広がっていくものではありません。
私自身が新しいチャレンジを繰り返すなかで自然にそうなっていきました。
そういった挑戦をはじめたのは占い師として独立して10年がたつころ、80年代後半のころからとなります。80年代後半に日本初の占星天文暦『エフェメリス・オブ・ジャパン』を出版しました。
今は便利な時代になってアプリをダウンロードしたり、サイトを見るなどすればすぐに占星術に必要な惑星の正確な位置情報と時刻情報などのエフェメリスがすぐにわかります。しかし、以前はそんな便利なものはありませんでした。
そんな時代に、はじめて日本で100年分以上の日本時間に対応させた本格的なエフェメリスを作りました。占い館シグマの計算式を使っているため、私は監修者として携わることになったのです。最初は自費出版でしたが、最終的には出版社が発行してくれるまでになりました。
エフェメリスを出版する過程で占い館シグマの社長から「この本は売れないのではないか」と言われたこともあります。要は、その社長はエフェメリスの出版に対してあまり乗り気ではなかったのです。
エフェメリスに関しては、「売れる売れない」の話ではないと私は考えていました。
それは、日本の占星術の正当性に関わることです。
占星術の信頼性を保つには、その国の時間に基準を合わせたエフェメリスがあるかどうかが重要だと思います。
日本国内で占星術をする当たり前の環境が整っていない、それを変えたかったのです。
それで、日本でエフェメリスを出版する意義を社長に直談判しました。

新たなサービスに
いち早く挑戦!
ダイヤルQ2の星占い
「プシュケー」が大ヒット
そして、時代は1990年代を迎えます。
まず1990年代の大きな出来事としてはダイヤルQ2での占いサービスの開始があります。若い方だと、ダイヤルQ2を知らないという人もいるかもしれませんね。ダイヤルQ2とは、特定の番号に電話することでユーザーの欲しい情報を得られるという有料情報サービスです。
このサービスを知ってすぐに「ダイヤルQ2で占いをやりたい」と思いました。当時はまだ、携帯電話すらも普及していない時代です。今のようにネットで簡単に占いができるなんて想像もつきません。そんな時代に自宅から電話で占いができるというサービスは絶対に流行るという確信があったからです。
ところが、なかなかそういったサービスを提供してくれる企業が見つかりません。新しいことだったので、まだ具体的なイメージを持てる人が多くはなかったのだと思います。「絶対にいける!」と思っていたのは私だけという状況でしたが、諦めずに探した結果、サービスを提供してくれる企業を見つけました。
1990年1月、いよいよダイヤルQ2向け音声占いサービス「プシュケー」がスタートしました。サービスが開始した日のことは今でも覚えています。お昼からはじまり、夕方になって担当者から「7000本以上の電話が入っています」と第一報を受けました。この瞬間、当たったなと確信しました。
その後、「プシュケー」は15年くらい続くサービスとなりました。ダイヤルQ2はアダルト系の進出により最後はかなり下火になってしまいましたが、その後、「プシュケー」で得た知見や経験は、iモードなど各種インターネットサービスへと引き継がれていきます。
なお、このときに「プシュケー」を一緒に作ってくれたポッケ株式会社(当時は株式会社ベルシステム24)は、その後のiモードやパソコンなどの占いサービスの配信も手がけてくれています。
もしも誰からも賛同を得られなかったからとダイヤルQ2サービスを諦めていたら、当然成功を得ることはありませんでした。また、その後のネットを中心とした占いサービスへのスムーズな移行も難しくなっていた可能性もあります。
ここでも諦めないで挑戦したからこそ、多くのものを得ることができました。


女性向けの心の分野を
切り拓いたことで
テレフォン人生相談に抜擢!?
また、1990年代にはニッポン放送のテレフォン人生相談のパーソナリティを務めるようになったことも印象的な出来事でした。1997年の初出演から今に至るまで長く続いている番組です。
テレフォン人生相談のパーソナリティのお誘いをいただいたのも不思議な縁があります。
ある編集者の方に「女性向けの心の分野についての本を出してほしい」と打診されました。占いを長くやっていると、それぞれの個性が出てきます。仕事方面の相談に強い占い師、あるいは恋愛など人によってさまざまですが、私の場合はそれが心について語る個性へと変化していました。
そんな私の個性を考慮しての執筆の打診でした。これをきっかけに執筆した本が『自分を愛することから始めよう―あなたはあなたのままでいい』(大和出版)です。
この本はたくさんの方に読んでいただいた本なのですが、実は、打診を受けたときに私は本の執筆に乗り気ではありませんでした。当時は「プシュケー」のヒットなどでとても忙しかったからです。
しかし、編集者の熱意に押される形で執筆しました。正直なところ、話をいただいたときも出版まで辿り着いたときもそんなに売れる本になるとは思っていなかったのです。それが出版された当日、「異例な伸び方をしています」という連絡がすぐにきました。そのときは軽く話を聞いている程度だったのですが、夕方に再度連絡があり重版が決まったということを聞いてさすがに驚きましたね。
最終的にこの本は、20万部を超えるヒットを記録しました。その後、同じジャンルの本を数冊出したころにニッポン放送からテレフォン人生相談のパーソナリティの話をいただいたのです。こうやって声をかけていただいた理由は、私の本が当時はまだ埋もれていた心の問題に光を当てたからだと思っています。
今では女性向けの心の分野の書籍はたくさんあり、書店にもそういったコーナーが設けられていますよね。しかし、あの頃は、書店でそのような本を見かけることはほとんどなく、ジャンルとしても認識されていませんでした。悩みを抱える女性は存在しているのに社会の中に浮かび上がっていなかった、そんな分野にスポットを当て、道を拓くことができました。そういう意味では、この本を書いてよかったと思っています。

山火事を起こして莫大な借金を背負う危機!?
人生観を変えた大事件
このように90年代は仕事が非常に軌道に乗っていた時代です。当時は日本の景気がいいことも重なってか何をやってもおもしろいようにうまくいきました。
その結果、当時の自分は「お金持ちになったんだ」という気持ちを抱いていました。今思うとお恥ずかしい話ですが、ベンツを買うなど、多くの人が成功したらやりがちな行動をそのまま実行していました。
別荘も購入したのですが、そこで当時の生活を大きく反省することになる事件が起こります。
それは3月末頃、まだ冬の乾燥の残る季節でした。別荘の庭で焚火をしていると、火の粉が松林に飛び火してしまったのです。松というのはよく燃える木ですから、みるみるうちに炎は大きくなっていきました。そして、今まさに目の前で、私の焚火のせいで山火事が起きようとしているのです!!
自分の力だけでは火を止めることは不可能、消防車もなかなか到着しないという状況。全てを諦めて腹をくくりました。そして、運命に従う覚悟を決めたところ、山火事は奇跡的に収まっていったのです。最終的に火事で被害が出たのは私の敷地内だけで済みました。
鎮火できたことに深く安堵したとともに、成功の脆さについても気づきました。どんなに成功したとしても天の機嫌ひとつで全てを失う可能性があると。それと同様に仮に失敗続きであっても天の機嫌ひとつで好転していくこともあるのだろうとも思いました。
いいときがあってもうぬぼれてしまったらおしまい、ダメなときに諦めてしまってもおしまい、そういったことを深く感じる出来事でした。また、もう少しで多額の借金を背負うことになっていたという経験から、いざとなったら「何でも捨てることができる」という覚悟を持てたというポジティブな面もあります。
その後のキャリアでもさまざまなことに挑戦していくのですが、その背景には金銭的な幸福の脆さに気づけたこと、より失敗を恐れない覚悟ができたということが間違いなく影響を与えています。
>>「第3回」につづく
挑戦に次ぐ挑戦、新たな地平を切り開いた90年代/マドモアゼル・愛
>>「第1回」 占い師「マドモアゼル・愛」誕生までの軌跡/マドモアゼル・愛
2023-1-22