
占いという分野において、独自の力で道を切り拓き、先駆者として占い業界を引っ張ってきたレジェンドたちに自らの半生を語っていただきました。
今、多くの人に親しまれている「占い」を形作った人々の生きざまや想いを深掘りしていきます。
チャレンジし続けるひと
占い師
マドモアゼル・愛
ある人にとっては雑誌やウェブでおなじみの占い師、またある人にとってはテレフォン人生相談のパーソナリティ、さらに別の人にとってはユーチューバー……、日本を代表する占星術師でありながらさまざまな顔を持つマドモアゼル・愛さん。
マドモアゼル・愛さんの多彩な経歴は、どのようにして形作られてきたのでしょうか。はじめて占いに出会った日からマドモアゼル・愛さんとして活動を開始するまでを振り返ります。


中学生の頃、
門馬寛明さんの著書で
はじめて占星術を学ぶ
占いをしたいと思う動機は人それぞれです。私の場合は最初の占いの経験が非常に幸福だったことがこれまでのキャリアに活かされていると思います。
もともと占星術の存在を知っていて興味を持っていた私は、中学生の頃に門馬寛明さんの『西洋占星術』(カッパ・ブックス)という著書を手にしました。
その本を開くと知らなかったことばかりで、すぐに門馬寛明さんの本に夢中になりました。気づいたら、その本を丸暗記するくらいに熟読していました。
得た知識で占ってみたいと思っていた矢先にチャンスが訪れます。私には姉が3人いて、姉の友達がよく家に遊びに来ていました。家が駅から近いこともあり、放課後のたまり場のようになっていたのです。
姉や姉の友人たちを占うと、とても喜んでもらえました。「占いは人を喜ばせることができる」という感動を覚えた瞬間です。人生ではじめての占いの経験は、自分にとって非常に大きなものでした。
その後も、家に遊びに来る人たちを占うことで中学・高校時代を過ごしました。この経験によって占うことの楽しさを知ったような気がします。占いの成功体験をこうやって理想的な形で積み重ねられたことは幸せなことでしたね。

大学生のアルバイトから
「星占いの館シグマ」
初代館長へ…!
そんな中学・高校時代を過ごしたのち、大学生になってから見つけたのが「星占いに詳しい人求む」というアルバイトの募集です。
かつて新宿に「星占いの館シグマ」という場所がありました。シグマは、当時最先端のコンピューターでホロスコープを作成し、サービスとして占いを提供することをコンセプトにしたお店です。といっても、私がシグマのアルバイト募集の張り紙をみたときは、まだ構想の段階でした。これをきっかけにバイトとしてシグマの立ち上げから関わることになったのです。
結局、大学を卒業したあともこのバイトを続けることになります。星占いの館シグマは無事にスタートして、私は初代館長も務めました。1年間ですが正社員として働いたのもこの時期です。私の人生では貴重な唯一のサラリーマン時代ですね。
星占いの館シグマでの経験を経て29歳のときに占い師として独立します。当時の大きな仕事としては、雑誌の星占いの執筆でした。
今では、雑誌に占いコーナーが掲載されているのは珍しくありませんが、こういった文化は私が占い師として独立した1980年代初頭頃から徐々に形成されていったものなのです。それまでの占いのスタンダードは四柱推命や易学で、新聞の一枠に掲載されるようなものでした。
しかし、12星座の星占いが女性誌に掲載されるようになり、おしゃれでカジュアルなイメージが広がりました。星占いを若者のカルチャーに浸透させたのは、まず門馬寛明さんの仕事が大きいと思っています。まさに私も中学時代に夢中になった門馬寛明さんの著書が、星占いを有名にしてくれたからです。
門馬寛明さんからの歴史を引きついで、私や浅野八郎さん、ルネ・ヴァン・ダー ル・ワタナベさん、エミール・シェラザードさん、ルル・ラブアさん、紅亜里さんなどが、星占いを雑誌やテレビなどのメディアで一般に定着させていったというのが星占いの歴史の一幕と言えるでしょう。


『My Birthday』のヒットも予見していた!?
占い師として育ててもらった女性誌での執筆時代
あの頃の雑誌の占いといえば、集英社の『non-no』創刊からスタートしたルネ・ヴァン・ダール・ワタナベさんの西洋占星術のコラムなどがありますね。
それから、私が最初に執筆したのは『月刊ミュー』(サンケイ新聞プロダクション)という雑誌で、その後『My Birthday』(実業之日本社)などにも寄稿するようになりました。
『月刊ミュー』は創刊後すぐに廃刊となってしまいましたが、『My Birthday』は1979年創刊から2006年の休刊まで根強く愛される雑誌となりましたね。
そんな『My Birthday』も、はじめは廃刊危機の話もあったんですよ。
創刊当初は売れ行きが芳しくなく、出版社の方々は廃刊を検討していたそうです。しかし、星占いの館シグマを訪れるお客様にはよく読まれていました。それで間違いなくこの雑誌は伸びると確信したのです。当時の出版社の人に「この雑誌は絶対に売れますよ」と力説したこともあります。
また、ある雑誌でG・ダビデさんと占星術のホロスコープ解読ページを担当していたことがあります。そのときに、毎回模範解答を送ってくれる読者がいました。この人がのちの鏡リュウジさん。鏡リュウジさんは当時高校生で、そのころから頭角をあらわしていましたね。
振り返ると、1980年代は古き良き時代でした。
『My Birthday』での仕事をきっかけに、最初の単行本を書かせてもらうことになりました。しかし、うまく書けずに締切も過ぎてしまいます。そんな私に、編集部の方が旅館を手配してくれたんです。1週間泊りがけで、まるで文豪のようにカンヅメで執筆に専念できる環境を整えてくれました。今ではなかなかあり得ない話だと思います。
このような形で助けてもらったと思うエピソードは数え切れませんね。多くのことを教わった、そして育ててもらったなという想いは今でもあります。
他にも、松村潔さん、ルル・ラブアさん、鏡リュウジさんなど、占い師仲間とよく旅行に出かけていました。また、終電まで占いについて語り合うということも。占い師や出版社の方々とお互いに助け合いながら働いていたそんな時代でした。

「マドモアゼル・愛」という名前の由来
「マドモアゼル・愛」という名前で活動をはじめたのも1980年代からです。この名前については、「男性なのに、なぜマドモアゼル・愛?」などとよく聞かれます。
占いの執筆をする際、最初はゴーストライターとして仕事を受けていました。紅亜里さんへの依頼を私が書くことになったときのことです。
紅亜里さんは、手伝ってくれた若い占い師も何とか社会に出してあげたいという優しい気持ちを持っている方でした。それで、私の名前も出してくれるという話になり、その時に何かしらのペンネームが必要ということになったのです。
紅亜里さんから電話がかかってきて、すぐに原稿のペンネームを決めてほしいと言われ、そのときに私が伝えたのが「マドモアゼル・愛」でした。それを聞いた紅亜里さんは、一瞬間を置いた後に「いい名前だね!」と声をかけてくれたのを覚えています。そんな経緯で名前を決めたからか、それからずいぶん経ってからも、会うたびに紅亜里さんは、私が女性的な名前で活動することを心配してくれていましたね。
しかし、名前を変えることなく、長年マドモアゼル・愛という名前で活動を続けてきました。なぜなら、自分としては女性らしい名前をつけたいという思いもあったからです。当時は今よりも男性性が幅をきかせていた時代ですが、そのような男性性に立脚していては社会が壊れていく、そのように感じたのです。マドモアゼル・愛とは、そんな時代の流れも意識して確信を持ってつけた名前でした。
ひとつの名前で長く活動するということは一種の業のような面もあります。活動している間はその人格を引き受けて、背負い続けることを求められますから。
>>「第2回」につづく
挑戦に次ぐ挑戦、新たな地平を切り開いた90年代/マドモアゼル・愛
>>「第3回」
挑戦に次ぐ挑戦、新たな地平を切り開いた90年代/マドモアゼル・愛
2023-1-15