
占いという分野において、独自の力で道を切り拓き、先駆者として占い業界を引っ張ってきたレジェンドたちに自らの半生を語っていただきました。
今、多くの人に親しまれている「占い」を形作った人々の生きざまや想いを深掘りしていきます。
タロット占いの第一人者
占い師
ステラ薫子
タロット占いの第一人者として知られるステラ薫子さん。しかし、その過去についてはこれまで語られる機会は多くはありませんでした。
今回はステラ薫子さんにタロットカードとの出会い、占い師として生きていくことを決めた瞬間などを振り返っていただきました。
知られざるステラ薫子さんの軌跡をご紹介します。


タロットとの出会いは14歳
22歳で家族の大黒柱に!
タロットカードは私にとって人生の大半を共にしてきた大切な存在です。そんなタロットカードとはじめて出会ったのは14歳のとき。当時、森永ハイクラウンという高級チョコレートがありました。このチョコの景品としてタロットカードがついていたのです。
タロットカードの絵を描いていたのは、ガンバ大阪のマスコットなどを手がけた松下進先生と『ベルサイユのばら』の池田理代子先生。私はその素敵なタロットカードにすっかり魅了されてしまいました。当時はカードひとつひとつの意味はわかりませんでしたが、時間があるときはカードを眺めて「このカードはこんな意味があるのではないか」と想像しながら過ごしていたのを覚えています。
当時から私は他の人に見えないものが見えるといった具合に霊感がありました。そんな私がタロットカードと出会い、占いに興味を持ったのは必然の流れだったと言えるかもしれません。中学の文化祭では『薫の館』という名前で出し物をして1回50円で占うということもしていました。
しかし、占いに興味があるということと、占いを仕事として生きていくことの間には乖離があります。実際私自身も学校を卒業してからは幼稚園の先生として働いていました。
転機となったのは22歳のときです。
ある時、占いで「塔」のカードを引いてしまい、なんとなく胸騒ぎがしました。それから2か月ほどして、母が病に倒れてしまったのです。それで私は、22歳にして家族の大黒柱としての役割を負うこととなりました。
占いで予兆のようなものを受け取っていたにもかかわらず、当時、私はそれをネガティブな面でしか捉えらえられず、ただ不安に苛まれるだけでした。
そんな私に母が伝えてくれたのは「悪いことや危険をそのまま伝えるのではなく、物事をいい方向に導くのが占い」ということ。この言葉は、私が占い師を職業にしようと心に決めるきっかけとなりました。人の悩みを解決し、よい方向に導いていく占いをしようという想いは今でも私の根本にあります。

政財界のキーパーソンが
クライアントに
きっかけはホラー漫画!?
占い師としてキャリア当初の大きな仕事のひとつに雑誌の連載があります。当時、『月刊経営塾』(経営塾)という雑誌の中に「社長の運命学」という企画があり、こちらを私が担当していました。ちなみに当時は「マラキ薫」という名前で活動していて、今の「ステラ薫子」になったのは32歳のときです。
この「社長の運命学」という連載の第1回に登場していただいたのが当時の富士銀行頭取 です。第1回からいきなりのビックネームの登場です。富士銀行頭取を皮切りにその後も経済界のそうそうたる面々に登場していただきました。
占いというと恋愛運や金運などの身近にある悩みの解決や手助けをイメージされる方が多いのではないでしょうか。しかし、私は自分のキャリアにおいてそういった一般的な占いをしたことはほとんどなく、政治家や経営者といった政財界のキーパーソンの方を相手に占いをしてきました。
他の占い師の方と比べると、私のキャリアは少し特殊かもしれません。どうして政財界の方々を占うようになったのか、そこには少し不思議なエピソードが関係しています。
学生時代、ちょうど18歳の頃に、部屋の中の物が突然浮いたり飛んだりする、ポルタ―ガイストのような現象を目撃しました。信じられない経験だったのですが、それを漫画家のつのだじろうさんが、心霊現象をテーマにした恐怖漫画『うしろの百太郎』(講談社)に描いてくださったのです。実は、霊感少女として私も漫画の中に登場しているんですよ。
そのおかげか、まわりから注目を集めるようになり、霊感少女として鑑定のオファーを受けることも増えてきました。占いで鑑定をするようになってからも「あの子のタロットは、すごい!」とクチコミが広がり続け、政財界の方々にも徐々に知られるようになっていったのです。つのだじろうさんの漫画が、私を政財界の方を占う道へ進めてくれたと言ってもいいかもしれません。
24歳の頃に、経団連の方から誘っていただいてフィレンツェを訪れました。そのとき、街中を散策に立ち寄った教会でフラ・アンジェリコの「受胎告知」を見て啓示を受け、これまで以上にタロットや占いの研究に没頭するようになったのです。アレイスター・クロウリーのトートタロットにはじめて出会ったのもこのときでした。

「それじゃ会社は倒産だ!」
クライアントを激怒させた大失敗
政財会の方々を占っていたのは私の原点でもあり、今日まで続く占い師としてのキャリアの軸となっています。しかし、信頼を勝ち取り、数十年単位での関係性を多くの方と築けるようになるまでにはたくさんの失敗がありました。
これは今でも忘れられない失敗のひとつです。手形が落ちるかどうか心配で相談に来た社長に、私は、“手形が落ちる”という言葉の意味も知らずに、「今回は落ちませんが、3回目には落ちます」と答えました。そうすると、その社長は机をドン!と叩き、「それじゃ会社は倒産だ!」と怒り始めたのです。
手形で取引をしたことがある人なら私の間違いに気づくでしょう。“手形が落ちない”とは、支払期日に当座預金が不足し「不渡り」を起こすということです。不渡りを2回起こすと会社は事実上倒産となります。ですから、3度目というのはあり得ません。完全に私の不勉強でした。
占いを教えてほしいと私の元を訪れる弟子たちにもよく言うのですが、占いはただ占いの基礎知識を身につけるだけではできません。経済や国際社会の情報を知り、自分自身の足で世界のさまざまなところに訪れてみる、こういった知見を広げていく努力が必要不可欠です。
振り返ってみると、私は師に恵まれていたと思います。最初は新宿の母に見出されました。18歳で私自身のことを占ってもらったときに「あなたは私の弟子になりなさい」と声をかけてもらいました。当時は幼稚園の先生を目指していたこともあって断りましたが、自信を持つきっかけとなりました。
本格的に占い師となってからは、日本占星学協会会長を務めた門馬寛明先生、占星学史に数々の業績を残した石川源晃先生、ルル・ラブアさんの師である潮島郁幸先生の3名には特に多くのことを教わりました。さまざまな先生に教えてもらいましたが3か月程度で「もう教えることはない」というレベルに達しました。占い自体の知識も必死で学びました。

裏切り、経営不振、
社運をかけた大勝負…
会社の危機を占いでサポート
政治家や社長を占う際、重要視されるのはとにかく結果です。例えば若い女性を占う場合、結果よりも過程を重視されることが多いです。話を聞いてもらって満足して帰るという人もいます。
一方、私のクライアントの多くが求めるのは、そのビジネスがいけるかいけないか、イエスかノーか、マルかバツか、とにかくハッキリと答えを出すこと。当たらなければ怒られる、そんな世界です。
経営者の方は当然忙しいので、会社に行く前に占いに来たり、あるいは夕方以降に食事をしながら個室で占ったりといった形で鑑定をすることがほとんどです。他にも休日の旅行に同行する形で占う場合もありました。月に1度、2か月に1度くらいの頻度で相談に訪れる方が多いですね。
中には、1年のうち250日間、毎日相談に来た方もいました。
その方は、会社の株を乗っ取られる寸前でした。そのことに私はすぐに気づき「このままいくと会社で損をすることになります。会社の中に悪魔がいます」と伝えました。最初はその人は「ステラさんが指摘するようなことは何もありませんよ」と否定的でした。それが徐々に私の占い通りに暗雲が立ち込めてきて毎日のように私のところに来るようになりました。最後の最後にナンバー2が造反者であることが発覚。その方は想像もしてなかったようで驚いていましたが、結果的に事なきを得ました。
時々、私の仕事を「タロットお仕置き人」というドラマにしたほうがいいのではと冗談で言われることもあります(笑)。裏切りや予期せぬ不振、社運をかけた大勝負……、私の占いで経営の艱難辛苦を乗り越えることができた方は数多くいます。30年を超える付き合いの方も珍しくありません。過程よりも結果を出す占いをシビアに求められる世界でこれまで生きてこられたことは私の財産でもあります。
>>「第2回」につづく
ステラタロットが世界中でヒットした秘密/タロット占いの第一人者・ステラ薫子
>>「第3回」占い師に求められる才能と努力とは/タロット占いの第一人者・ステラ薫子
2022-12-08