
占いをなりわいとしている人はどんな本を読んでいるのか。あの人の考え方や視点はどうやって生まれたのか。本との出会いやエピソードとともに偏愛している本を紹介してもらいましょう。
修験者・占い師/法演
「生きた鑑定」とは
何かを教えてくれた本
黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』ほか
感情や言葉を感じられる生き方を
『窓ぎわのトットちゃん』
感情や言葉を感じられる生き方を 『窓ぎわのトットちゃん』
生まれて初めて読んだ文字だけの本は『あしながおじさん』だ。
14歳離れた姉が「これおもしろかったよ」と言って6歳のわたしにくれたのが最初だった。
幼少期から持病があり入退院を繰り返していたわたしは、まだインターネットなどない時代、絵本だけが友達だった。
本だけは糸目をつけずに買い与えてくれる父によって、ありとあらゆる絵本を読破している幼児だった。
12歳と14歳離れた姉たちに溺愛されていた末っ子だったゆえに口も達者で、姉たちはわたしをあまり6歳児扱いしていなかった。
『あしながおじさん』をあっさり読破すると、姉は当たり前のように次の本をくれた。
それが黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』(講談社文庫)。人生で2冊目の、文字だけの本だ。
「これに出てくる『おっかぁ、こいつは御の字だぜ』ってセリフがすごいおもしろいんだよ」
姉はそう言ってわたしに『窓ぎわのトットちゃん』を手渡した。
“おっかぁ”の意味は「日本昔ばなし」のおかげで理解できたが、6歳のわたしには“御の字”はちんぷんかんぷんだった。
でも、わたしは読んだ。
読み進めると、姉が言っていた“すごいおもしろい”セリフが出てきた。
おっかぁ、こいつは御の字だぜ
引用:黒柳 徹子『窓ぎわのトットちゃん』(講談社文庫)
これはお客さんからバナナをもらったトットちゃんが、丁寧におじぎをしてから言ったセリフだ。
「姉ちゃんが言ってたのはこれだな」と思った。
でも、御の字の意味はやっぱりわからなかった。
「バナナの形が、“御の字”の形だったのかな?」と思った。
ひらがなの“お”の字を思い浮かべた。
カタカナでも“オ”をイメージしてみた。
どれもしっくりこなかった。
バナナがそんな形になるわけがなかった。
“御の字”の本当の意味を知ったのは高校2年生になってからだった。
世の中には、最初に出会った瞬間には理解できないことがたくさんある。
言葉の意味も、人の気持ちも、目の前で起こる事象も。
とっさには受け入れられないことがたくさんある。
でも時間が経って、いろいろな経験をして、知識を得ていく中でふと「ああ!! あれはこういう意味だったのか!」と、点でしか認識できていなかったものがぶわっと立体的になる瞬間がある。
その瞬間に、いつも頭の中いっぱいに快楽物質がはじけるように広がるのを感じる。あの快感は、他の何をしていても味わえない。
わからない言葉の意味は調べられるし、異文化の人たちの暮らしも本やインターネットから知識として得られる。でも、肌、細胞、脳のシワに刻み込まれるような興奮は実際に触れてみないとわからない。
知識は机上で得られても、知恵と経験はフィールドワークがなければ得られない。
現実的に生々しく、感情や言葉を感じられる生き方をしていきたい。その実像あるグロテスクな感性、知覚こそが、相談者さまに届く鑑定、届く言葉を生むのだと思っている。
「15歳の失恋と35歳の失恋はワケが違う」と、わたしはいつも鑑定で言う。
この違いをちゃんとわかっていないと生きた鑑定はできないと思う。こうした感覚を養い、摩耗させないために何をすべきかも常に意識している。
『窓ぎわのトットちゃん』はわたしにそんな意識を植え付けてくれた作品だ。
もう御の字の意味を知る大人になったが、読み返すたびに違った感動がある。
ちなみに姉が3冊目に持ってきたのは、筒井康隆の『農協月へ行く』(角川文庫)だった。
作り手の数だけ表現方法は無限に広がる 『アンドロイドは電気羊の夢を見るのか?』
作り手の数だけ 表現方法は無限に広がる 『アンドロイドは電気羊の夢を見るのか?』
わたしは、わたしの鑑定はわたしにしかできないと思っている。
これは自信があるとか天才だから、なんていうしょうもない理由ではなく、わたしという人間がこの世にひとりしかいない以上、オリジナルはわたしだけなのだということに由来する。
逆に言えば、わたしが他の人の鑑定をどんなにマネても同じにはならない。
誰もが唯一無二なのだ。
頭ではわかっていても、なかなか腑まで落とし込むことができないこの事実をわたしの全身にひたひたに染み込ませてくれたのが、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(早川書房)だった。
映画『ブレードランナー』の原作だ。
原作を読み、映画を観て、15歳のわたしは奮えた。
小説が映画になるということは「原作者の手から離れて他の誰かのものになる」といった現実を目の当たりにしたからだ。
翻訳という手法でトランスフォームされることに関しては、R・L・スティーブンソンの『宝島』が絵本や小説など多様な形に展開されているのを知ったときに、すでに十分すぎるほどの衝撃を受けていた。
小説から小説に翻訳されるときにはある程度原作に忠実なので、それほどオリジナリティが損なわれている印象はない。しかし、それが幼児向けの絵本になると、一気に形が崩される。
もとの作品にプロットがしっかりあると、届ける先に合わせた形に美しく変化させることができるものなのだなというのは『宝島』が教えてくれていた。そう、『宝島』ですでに洗礼を受けていたはずだった。
それなのに、さなぎの中でいちど生物がドロドロになり細胞を組み立て直すのと同じように、 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は映画『ブレードランナー』としてまた別次元の最高のエンターテインメントに昇華しているように感じられた。
ストーリーに触れないように例を挙げると、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では原作の世界観を象徴する重要なキーワードであるはずの“アンドロイド”が、映画では“レプリカント”と呼ばれていた。
映画では“レプリカント”がしっくりくる。
“アンドロイド”と言われると古臭い気さえする。
でも、小説に出てくる“アンドロイド”という言葉は小説で読むとダサくない。
映画には映画の表現方法がある。
小説には小説の、イラストにはイラストにしたときにしか輝かないスタイルがある。
メディアが変わることによって、表現方法は無限になる。
わたしにはその自由さがまぶしく感じられた。そのまぶしさは、それまで妙なところで四角四面に物事を受け止めていたわたしに、「なんでも好きに咀嚼していい」という新しい世界観を与えてくれた。
いまもわたしの根幹をなす思考はこの作品によって築かれた。
築いてくれて感謝している。
ディックありがとう。
これからもよろしく。
2022-05-26
農協月へ行くの中の短編「経理課長の放送」がおすすめ
“メディアが変わることによって、表現方法は無限になる。”
原作のある映画を観るたびに「なるほどそうきたか!」と感心したり、「なんでこうなった……」と落胆したりしてきたけれど、それもまた、表現の在りようなのですよね。
“「なんでも好きに咀嚼していい」という新しい世界観”
これこそまさに占いのおもしろさだと思っています。