
占いをなりわいとしている人はどんな本を読んでいるのか。あの人の考え方や視点はどうやって生まれたのか。本との出会いやエピソードとともに偏愛している本を紹介してもらいましょう。
アストロロジー・ライター/Saya
「星の言葉の翻訳者」へ
導いてくれた本
スーザン・クーパー『光の六つのしるし』ほか
子どもの頃を思い出すと、部屋の隅にうずくまり、ひらいた本を膝に抱えるようにして読みふけるおかっぱ頭の少女が浮かんでくる。
出身は東京の外れ、山向こうに富士山が見える小さな町。父は新宿に本社がある自動車会社のサラリーマン、母は専業主婦という典型的な昭和の家庭で育った。
児童文学評論家の赤木かん子さんが隣の自治体にいらした関係で、私たちの町の図書館も児童文学の充実に力を入れていた。
手さげいっぱいに本を借りて、返却日までにすべて読んではまた借りるのが小学生の私の日常で、児童文学のコーナーを見渡しては「読んでいない本がまだこんなにある!」と胸ふくらませていたことを覚えている。
『赤毛のアン』『ロッタちゃんのひっこし』『やかまし村の子どもたち』……海外の文化やライフスタイルを教えてもらった児童文学は数知れない。
母が買う婦人誌の世界にも憧れ、思春期にはファッション誌やインテリア誌に夢中になった。私のまわりにはいつも本や雑誌があり、生活にいろどりを添えてくれていた。
早稲田大学に進学してからは当時、渋谷の東急文化村にあった丸善でアルバイト。洋書店だったので、バイト代を貯めては海外のインテリア誌や洋書のビジュアルブックをそろえていった。大人になってから生活分野の雑誌編集者になったのも、ベースには子どもの頃の読書体験があると思っている。
一般的な児童文学が私のハートを心地よく楽しませてくれたとしたら、精神の栄養になったのが児童文学の中でもファンタジーの世界だ。
とくにイギリスのファンタジーはくりかえし読んだものだ。
映画化によって日本でもよく知られるようになった『ナルニア国物語』や『指輪物語』はもちろん、『赤い月と黒の山』『光の六つのしるし』『トムは真夜中の庭で』など親しんだ物語がたくさんある。
『指輪物語』は、架空の世界だけで物語が完結するが、『ナルニア国物語』や『赤い月と黒の山』ではパラレルワールドが存在し、現実世界と異世界との境界を主人公の子どもたちがまたいだときに物語が生まれる。
『光の六つのしるし』の舞台は現実のイギリスだが、主人公は、『ナルニア国物語』同様に、大きな力にあやつられるように過去と未来を行き来する。
主人公たちが「時」から外れたときに魔法の力が働き、世界を救うことになる。
『トムは真夜中の庭で』はある屋敷と庭を舞台に、「時」から外れる魔法が起こる。ハティおばあさんの夢の中にまぎれ込むようにタイムトラベルが起こるのだ。
こうして並べてみると、ファンタジーといっても、私が惹かれるのは血湧き肉躍る冒険ではないことに気づく。
私の好きな物語ではいつも「時」が大きなテーマとして描かれる。
そこでの作者は時空を自在にあやつる「時の魔法使い」とでもいうべき存在。読者である私は魔法使いの作者にみちびかれながら、しばし非日常の時空旅行を楽しみ、精神を解放させていたのだと思う。
20代後半に占星術と出会ったとき、すんなりとその世界観を受け入れられたのも、ファンタジーに親しむことによって、異次元に心ひらかれていたからだろうか、と今回、「自分を作った本」というお題をいただいて考えることとなった。
『赤い月と黒の山』には星仙術師という月や星を読む者たちが出てくるし、『光の六つのしるし』は、選ばれしサイキックが光と闇に分かれて戦う物語だ。
「ホロスコープという、この摩訶不思議なシンボルの羅列による自分の物語を読みたい」と熱烈に願ったのも、物語を読む楽しさを子どもの頃に植えつけられていたからという気もする。
なにしろホロスコープはひとりひとりの物語だから、人間がこれだけいる以上、物語も無限に存在する。読んでいない物語へのときめきは、子どもの頃に感じたのと同じ種類のものだ。
生活分野の雑誌編集者やライターとして働いたのち、30代の半ばには「星の言葉の翻訳」をなりわいとするようになった。
それから14年あまりの時が経っても、いまだ占星天文暦をひらくたびに胸おどるのは、2022年という現在の星の物語を読んだかと思うと、自分が生まれた1971年という過去に飛ぶこともできるというように、「時の魔法使い」気分を味わえるからかもしれない。
エフェメリス(占星天文暦)を読むときには物語を読むような、不思議な興奮もある。
太陽や水星、土星たちがさまざまな元型として、私の前を通りすぎる。音楽家が浮かんできた楽譜をつかまえるようなものか。いや、エフェメリスという譜面はすでにあるので、演奏家かもしれない。
浮かんできた着想をどうにかこうにか言葉でつかまえ、人に伝える作業をしているわけだが、占星術は、現実と異世界をつなぐ梯子になるものだ。子どもの頃に読んだファンタジーと違い、惑星の象徴や元型は折りにふれ、現実にあらわれる。
ファンタジーを愛してはいるものの、同時にリアリストである私にはこれはたまらない快感だった。
だからこそ、こんなにも星に魅了され続け、飽きることがないのだろう。
とはいえ、私は「星の言葉の翻訳者」にすぎない。占星術には確かにパワーがあるが、力を持つのは神々である惑星たちであって、こちらは単なるメッセンジャーであり、稲荷神の使いの狐のようなものだ。
そのため、承認欲求に使ってはいけないと自分を戒めている。でしゃばることなく、謙虚であるのと同時に、できるだけエフェメリスに正確な文章を心がけている。
その一方で、私が感じている星の物語を読むときの興奮と「時の魔法使い」の感覚もぽっちりは入れて、読者の方にも感じてもらいたい。
商業ベースでできることには限りもあるが、占星術の持つ世界観だけはみなさんに伝わるよう願いながら、織り子にでもなったように一文字一文字つむいでいる。
これらの本は図書館で借りていたので、大人になってからそろえたものもある一方、大半は手元にはなかったが、エッセイを書くために取り寄せ、読み返すことができたのも幸せだった。
そのうちの一冊、『光の六つのしるし』にこんな一節があった。まさに占星術そのままに思える。
占星術を学ぶということは、きっと時の扉を手に入れるということなのだ。
「われわれ輪の者は、〈時〉の中にゆるく置かれているにすぎないのだよ。あの扉は〈時〉を通り抜ける手段のひとつだ。どちらでも、好きな方角に出られる。
なぜなら、あらゆる時間は同時に存在しているのだ。未来が過去に影響を及ぼすことも時にはある。過去が未来へ通じる道であってもな……」
引用:スーザン・クーパー (著)、 浅羽 莢子 (翻訳)『光の六つのしるし』(評論社)
『赤い月と黒の山』にはまたこんな一節がある。
この世界では銀の月と赤い月がそれぞれ違う周期でまわっているのだ。
「彼女の力は常に一定ではない。自分自身の星が上昇していたので黒の山へつかわされたのだが、天の舞踏は一瞬たりとも止まないから、まもなく、ほんとうにまもなく、彼女の星は沈むだろう……そうしたらどうなる? それにふたつの月は?
月を見上げて、心が冷えるのを感じた。ケドリンの赤い月は魔術師たちの味方で、銀の月はその敵である。
銀の月なら力を……クニル・バノースと戦う力……ペネロピーを守る力を貸してくれる。
だが鷲の戦いの晩にふたつの月はともに満月だった。銀の月の周期は二十七日間で、九晩のちには新月になるが、赤い月の方は満月から新月までが三十七晩もあるのだ。
つまり、銀の月が見えなくなって、援助があてにできない時に、赤い月の方はほとんど全力をあげて敵を助けることができるという計算になる」
引用:ジョイ・チャント (著)、浅羽 莢子 (翻訳)『赤い月と黒の山』(評論社)
この二十年あまり惹かれてきた占星術の原点のようではないか! まさに自分を作る本であると思う。
2022-03-24