鏡リュウジ

新メディア「LittleLight」の創刊、おめでとうございます! 「LittleLight」は、占いにおける「業界誌」を目指しておられるということ。

僕の知る限り、このようなメディアはこれまでになかったと思います。もしこれがうまくいけば、本当に画期的。商業的な占いコンテンツを提供する一企業が運営するからこその難しさ(例えば、中立性をどんなふうに担保するか)も強み(例えば、なにより占いの仕事を内側から理解している)もあるでしょうが、ぜひ、この「小さな光」(LittleLight)を「頼れる光」へと僕たち占い関係者で育てていこうではありませんか。
ところで、みなさんは自分の職業を尋ねられた時に、どんなふうにお答えになるでしょう?


「占い師」と答えられますか?
最近では、占いはかつてほどアヤシイものと見られなくなっていることもあって、「占い師」を名乗ることにも一昔前のような抵抗感も減っているかもしれません。それでも、やはり堂々と「占い師」を名乗るのはちょっと……と二の足を踏む人のほうが多いのではないでしょうか。

当然です。そして、この「占い」にかかわることの一種のてらいや恥ずかしさ、葛藤があることはむしろ現代における占い師の誠実さのしるしでさえあると僕は思っています。

なぜでしょうか。それは「占い」の論理が、今、僕たちが生きている近代・現代の社会の主流の、そして少なくとも表向きの価値観(近代科学を支えてる価値観)とはそぐわないからです。


冷静に考えれば、遠い星の動きが人々の未来を、とりわけ「あなた」という個人の具体的な未来を示すなどということがあるでしょうか。筮竹やコイン、カードといった単なるモノが神意を伝えるなどということはあるでしょうか? 手のシワに人の将来の結婚を読み取れるなんてことはありえるのか?

懐疑主義者たちからすれば、占い師たちは、「占いが当たる」といって人を騙している以上に自分たち自身を無意識的に騙している愚か者、ということになってしまうでしょう。

ですが、
僕たちはそれほど愚かなのでしょうか。


占いの歴史を考えてみましょう。「合理的」な視点からの占い批判は、近代に始まったものではありません。西洋のことを考えただけでも、ギリシャやローマの時代から、「合理的」な視点から占いは批判され、嘲笑され、白眼視されてきました。ローマ時代のキケロは徹底的な占い批判である『占いについて』を早くも紀元前1世紀にはまとめているのです。※1
ですから、いまさらお利口な人々に占いの愚かしさや合理的に考えたときの矛盾を指摘していただくまでもありません。おそらく、考えられる限りのほとんどの占い批判の論点や「型」は歴史の中で出尽くしていると言ってもいい。(それを学び直すのは僕たちのもうひとつの仕事であるかもしれません。これはとくに僕にとっての「宿題」ですね)
※1 Cicero trans.by W.A Falconer On Divination in Cicero XX Loeb Classical Library 1923,2001 ただし、この書は詳細に占いを論じているので、当時の占いの実情や、その後の占い論の展開を考えるのに重要な資料となっている。ですが僕は思うのです。占い的な思考は、わかりやすい合理とは異なるけれど、僕たちの心や思考の深いところで作動しているとても繊細で、より根源的なものではないかと。そしてそれは僕たちをこの世界、そして見えない世界とつなげていると。


例えば、結婚式の日、空に虹がたまたまかかったのを見たとき、僕たちはどう感じるでしょう。そこに「幸先のよい」しるしを見ることを「迷信」だと批判するとしたらそれはいかに無粋で、やせ細った感性であるでしょうか。科学的、合理的に考えれば、虹の出現は空中の水滴と太陽光が生み出す光学現象にすぎません。新婚のカップルの将来とは何の関係もありません。しかし、僕たちの心は深いところでそこに「しるし」を見ることができます。合理的な回路でいえば「誤りの連想」をすることができるのです。この誤読はしかし、確かな感情をともないます。誰に教えられることもなく、虹が象徴として機能し始めるのです。それはきっと詩の誕生でもあり、さまざまな物語や人生の意味を生み出している心の働きと深いところでつながっています。

このようなことを考えているときにいつも思い出すのは、古代ギリシャにおける異常な羊の出現をめぐる逸話です。これはプロクロスが語っているもの。


あるとき、角が一本しかない羊が生まれました。これは滅多にないことです。そこで占い師が呼ばれ、いったいどういう意味があるかと尋ねられました。占い師は、当時、競合しあっていた二つの政治的な勢力のうち、自分たちに近い勢力がすべてを手にするしるしだと読み取りました。しかし、その後により「科学的」な人物がやってきて、その羊の頭を解剖したのです。すると、頭蓋骨や脳に異常が見つかりました。これがその羊に一本しか角がないことの「原因」だと言ったのです。人々はこの鮮やかさ、合理的な判断に拍手喝采をします。いったん、占い師の権威は失墜しました。しかし、その後、たまたまなのか、占い師の予言は的中します。そのとき、人々はその合理的な人物とともに占い師の「しるし」を見た能力もほめたということでした。※2
※2 この逸話についてはロベール・フラスリエール著 戸張智雄訳『ギリシアの神託』文庫クセジュ 白水社1963年 p18-19つまり、この物語は僕たちの中に、科学的、合理的な思考法と連想関係に基づく占い的な思考法が繊細なかたちで共存しているということを示しているのです。僕はこの物語が大好きです。

しかし、ここで満足してはいけないでしょう。これはひとつの論点でしかありません。例えばさまざまな種類の占いの中に共通する要素はあるのか。社会の中での占いの機能や役割は何か。占いが害をなしてきたことがあるとしたら何か。過去と今の占いは同じか、違うのか、そしてその違いはあるのか。今後、占いに期待されることは何なのか。また占い師の労働環境や権利はどのように守るべきか。

考えるべきこと、語り合うべきことは山のようにあります。そして、その見通しはけして明るくはありません。

そして、ここでまた「しかし」です。しかし、この「旗色の悪さ」「見通しの悪さ」こそ、占いに関わるものへのひとつの祝福でもあるのではないでしょうか。それは占い師が悩み続けなければならないということは、占い師は社会の「勝ち組」などではなく、占いの言葉に耳を傾けてくれている人達と同じように、悩み続ける人間の側にあるということを示しているのですから。

この媒体はその名前のように、「小さな光」であって、まばゆい太陽のような大きな光になることはないでしょう。しかし、「かそけき」「ぼんやりした」小さな光であるということにこそ意味があります。その小さな光のもとでしか語れない何かが占いにはきっとあるのですから。

2021-6-21

著者プロフィール

鏡リュウジ(かがみ・りゅうじ)

鏡リュウジ(かがみ・りゅうじ)

占星術研究家、翻訳家、国際基督教大学大学院修了(修士)。
京都文教大学、 平安女学院大学客員教授、日本を代表する占星術家の一人。
占星術、 占いのジャンルのイメージを一新、 16歳のメディアデビュー以来、 日本の占いや神秘研究の第一線で活躍し続け、ポップなメディアからアカデミックな媒体まで幅広いその活動はほかの追随を許さない。またその活動は英国や豪州でも。

主な著書に『占星術の文化誌』『占星術の教科書』(原書房)、『タロットの秘密』(講談社現代新書)、『占いはなぜ当たるのですか』(説話社)、訳書にグリーン『占星学』ハイド『ユングと占星術』(青土社)キャンピオン『世界史と西洋占星術』、グリーン『占星術とユング心理学』ほか多数。

英国占星術協会会員、日本トランスパーソナル学会理事。

鏡リュウジ公式サイト http://ryuji.tv/

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葉月
葉月

途中の微妙な写真が邪魔。文章だけでいい。

通りもん
通りもん
返信  葉月

たしかに…

oji
oji

うーん、うーん、、としか言えないサイトですな

たまる
たまる

内容はとても魅力的なのですが、緑っぽいバックに白文字だと少し見づらいので残念です。

夜の羊
夜の羊
返信  たまる

スマホだと、目がチカチカしますね

toki
toki

読み見ごたえがありますね!でもいつの間にか引き込まれていて読み終えていました!

あんどぅ
あんどぅ

「小さな光」を「頼れる光」へ・・・期待しています!

yanai
yanai

なるほどなー!

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