
占いをなりわいとしている人はどんな本を読んでいるのか。あの人の考え方や視点はどうやって生まれたのか。本との出会いやエピソードともに偏愛している本を紹介してもらいましょう。
占い師兼児童書作家/高橋桐矢
生きている実感をくれた
SFの世界
小松左京の『復活の日』
高校中退するつもりはなかった。普通に卒業して進学もするのだろうと思っていた。ところが高校1年の3学期、頭痛と腹痛で学校に行けなくなった。まだ不登校という言葉もなかった頃だ。時間はたくさんあったので、家にある本をむさぼるようにして読んだ。父がSF好きだったので、ロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフ、星新一、筒井康隆、小松左京等の本が本棚にあった。
小松左京の「復活の日」は、致死性のウイルスによる人類滅亡の危機を描いた、社会派SFだ。

細菌研究所から盗まれた猛毒のウイルスが、手違いで拡散してしまう。最初はインフルエンザの一種と思われていたが、心臓発作からの突然死が報告され、やがてそのケタ違いな凶暴性が明らかになっていく。普通の日常が次第に浸食され、じわじわと破滅へと向かってゆく描写が、とてつもなく怖い。
例えば、ラッシュ時の電車の中。
「乗客の数が、妙にまばらになって来ている。(中略)誰かがはげしい咳をすれば、人々はうす気味わるそうに、横を向き、身を引く」
「たかがカゼじゃないの!(中略)その「たかが」が、どこか心の奥底の方で、「まさか」にかわりつつあった」
引用:復活の日/小松左京(角川文庫)
気づいたときにはもう遅い。病院に殺到する患者に、寝る間もなく不眠不休で対応しつづける医療従事者も病魔に倒れてゆく。そして南極にいたわずか一万人を残して人類がほぼ死滅したあと、さらに絶望的な事態が起きる。
無人となった核弾頭自動報復装置が、作動しようとしていたのだ。
人類の無力とおろかさに打ちのめされる。
だが、小松左京は、そこからの「復活」を描いてみせる。
奇跡はおきない。都合良く助けも来ない。
泥臭く、しぶとく生き抜くその先に、わずかな希望と光がある。
当時高校生だった私にとって、「復活の日」に描かれた世界は、身の回りの現実とはかけ離れていた。友達とのおしゃべり、制服を校則に引っかからずにどう着崩すか、学校帰りの買い食い、深夜ラジオ、テレビのお笑いとアイドル。携帯もSNSもなかったが、誰と誰が付き合っているという情報はあっという間に教室中を駆け巡った。
ただ、教室に居場所がなかった。
普通の現実との違和感に、じわじわと真綿で首を絞められるかのように息苦しくなって、学校にいられなくなった。
そんな私にとって、SFの世界だけが「生きている実感」を得られる場所だった。
現実不適応になりかけていた私には、人類絶滅する物語こそが必要だった。
今は逆に、コロナという非日常の中で、「普通の日常」が求められているのかもしれない。
マスク無しで友達とおしゃべりしたり、繁華街で買い食いしたり、部活や修学旅行が普通にできる日常。
非日常という現実に不適応になりかけている人のほうが多いかもしれない。
けれど、人はどんな状況にいても、「生きようとする」。
小松左京の「復活の日」も代表作「日本沈没」もただの社会派SFではない。
絶望の中で「それでも生きる」人間をくり返し描いた小松左京は稀代のロマンチストだと思う。
現実は、むごい。努力は報われるとは限らない。
絵に描いたような救いも、超人的なヒーローもいない。
ただ、涙と鼻水にまみれ泥だらけになりながら、死ぬまでのその時間を精一杯、生きるしかない。
コロナ以前にはもう戻れないかもしれない。
けれど、コロナ後、人類は復活するだろう。何度でも。
高校生のとき、もう生きていけないかもと思った私も、まだしぶとく生きている。
人は、何度でも復活していけるはずだ。
SF小説に救われた私は、今でもそう信じている。
2021-09-09